映画「最後の決闘裁判」
主要な登場人物は3人
友人夫婦と
その妻に横恋慕する夫の友人
事の起こりは
妻が夫に対し
夫の留守中に
友人の男に強姦されたと告白したことに
始まります。
しかし
当時は女性には人権はなかったので
女性が被害者として訴えることができない。
そこで
夫は所有物である妻という財産を侵害された
という名目で友人を訴えます。
夫は遠征で留守
同居中の義母は
召使を連れて外出した最中であり
目撃者はいないことに加え
最初の裁定を担当する貴族は
告発された友人の上司のため
訴えは認められない。
上訴して国王に裁定してもらったものの
最初に裁定した貴族と国王は
親族なので
判断は覆りません。
そこで
神に判断を仰ぐ
決闘裁判を行うことに。
見どころ①
夫→友人の男→妻
の順序で3人の目から事実がリプレイされますが
同じ事柄のはずなのに
当事者が変わることによって
こんなにも違って見えるのか
ということを同じシーンを繰り返すことで
見せつけます。
生の事実としては共通のはずが
記憶の書き換えのせいなのか
認識の違いのせいなのか
全く同じようには描かれません。
このことは現代の裁判での証言にも通じるところがあると思います。
当事者は真実と信じて証言していても
生の事実とは異なる可能性があるのです。
見どころ②
「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」
(2019年)の中でも
フローレンスピュー演じる4女が
絵の才能がないことを確信したものの
女性には財産権がないから
生きていくために結婚する
という決意表明するシーンがありますが
人権先進国のフランスですら
14世紀では女性が強姦されても
訴えることができないのです。
また裁判では被害者の心の傷に塩をぬるような
まさにセカンドレイプのような質問のシーンも
いたたまれません。
強姦のシーンも
友人の男と妻の視座で2回描かれますが
微妙に違います。
なにより
その後の妻がどのような傷を負ったかは
男の視座にはないシーンばかりで
レイプの加害者は男ばかりではないことがわかります。
見どころ③
登場人物の男たちはことごとく糞野郎で
まともな男がでてきません。
脚本を書いたマットデイモンやベンアフレックも
それぞれ夫と上司の貴族を演じていますが
いずれもロクな男ではないです。
夫はとにかくデリカシーがないのです。
その象徴的なシーンとして
夫婦のシーンであるにもあるにもかかわらず
夫のシーンでは登場しなかった
印象的な場面が2つありました。
一つは二人のセックスのシーンで
もう一つはレイプされたと告発された後のシーンです。
夫とのセックスは動物の交尾のように
荒々しく描かれていました。
メタファーとしてなのか
馬の交尾シーンもありました。
遠征から帰ってきて
夫は妻にセックスを求めますが
強姦から日が浅い妻は拒否し
その理由として強姦されたことを告白します。
それを聞いた夫はしかるべく措置をとることを告げた上で
再び妻にセックスを求めますが
その時のセリフが糞なのです。
ネタばれになるので
映画館で確かめてください。
最後に(ネタばれあり)
映画では決闘終了後の夫婦も描かれます。
決闘直後の2人と数年後の妻です。
国王から夫が勝利者であることが宣言され
夫婦はお互いに命拾いします。
二人は抱き合い、民衆の歓声を受けながら
決闘場を後にします。
抱き合う二人は
歓喜に満ち溢れているとったいった感じではありません。
数年後、子供と遊ぶ妻が写し出され
妻のアップで映像は終わりますが
目は死んでいます。
夫はそれから数年後遠征先で死んだものの
妻は生涯独身であったという
エンドクレジットがでて
映画は終了します。
この映画は
男性優位社会で生きざるを得ない
女性の力強さと切なさは現在も変わっていない
ということを伝えたかったのではないでしょうか。
それにしても、男がアホなのは
いつの時代も変わらないようですが
脚本を書いたのが男性の俳優陣だった
ということは数少ない救いではないでしょうか。
以上
【追記】(朝日新聞(2021/10/22夕刊 )の映画評)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15085714.html?ref=pcviewer